埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、Saitama Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。埼玉県を保護地域とし、同県所沢市にある西武ドームを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)は隣接する西武第二球場を本拠地としている。 球団創設(旧クラウンライターライオンズ買収)30周年を迎える2008年1月1日より一軍の球団名を「埼玉西武ライオンズ」と変更する方向で各種機関に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。 また、一軍の本拠地名称と二軍の球団名については、2005年3月1日から2008年1月8日まで、それぞれ命名権(ネーミングライツ)を採用していた。 * 戦時中の1943年に職業野球に参加していた西鉄軍は、親会社こそ同一企業(西鉄)だがチームとして直接の繋がりはなく、西鉄クリッパースは戦後一から作り直した球団である。 * 西鉄クリッパースのニックネームの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時パンアメリカン航空の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「クリッパー」から採用されたと言われる。(参考(外部関連記事) スポーツライター・綱島理友の「綱島プロ野球研究所」からニックネームCの項) * 西日本パイレーツの吸収合併に伴い1951年より採用した「ライオンズ」は獅子から取ったもので、やはり公募による。西鉄時代から変わることなくニックネームとして定着している。ちなみに西日本パイレーツと合併した時には「ターザン」が流行していたため、愛称の最終選考には「ターザンズ」も残っていたという。 * 1953年には中西太が平和台野球場のセンターバックスクリーンを越える、推定160メートルとされる大ホームランを放った。この他にも中西は多くの逸話を残しており、「野武士軍団」西鉄ライオンズの看板選手たる人物だった。 * 西鉄全盛期というと「宿舎での女湯のぞきは当たり前、無断で他の選手のビールをスポーツ新聞の記者におごったり、博多どんたくの前日に仮装行列で繁華街を練り歩いたり…」といった数々の武勇伝が語り継がれているが、選手同士の仲は良いというよりも逆に悪すぎる(言い換えれば、馴れ合いが決してない)ほどで、たとえレギュラーであっても細かいミスを犯した選手に対しては容赦なく味方ベンチから罵声が飛んだ、大事な試合でエラーを犯した高倉照幸が、試合後全選手の前で土下座した(次の試合で高倉は名誉挽回の活躍をする)、全く試合に起用されない選手が、冴えないプレーをしたレギュラー陣に「俺の代わりに試合に出ていることを解っているのか」と説教したなど、エピソードには事欠かない。豊田泰光は「三原のオヤジの采配もさることながら、この雰囲気があったからこそ、3年連続日本一を達成できた」と述懐している。
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* 1979年に西武ライオンズがスタート。最下位・4位・4位の後、広岡達朗監督の下、東尾修、田淵幸一らを中心とした1982年・1983年に2年連続日本一、秋山幸二、石毛宏典らを中心とした1985年~1988年はV4と栄光の足跡を残した(1986年~1988年は日本シリーズ・3年連続日本一)。 * 森祗晶監督時代は投打ともに圧倒的な戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙など)が揃い、特に渡辺久信(最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲(巨人の王・長嶋のON砲以来の破壊力を誇った)と呼ばれた秋山・清原の打力は他球団から恐れられた。1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年は近鉄に2厘差、さらにオリックスに1厘差の3位)、6度の日本一(1993年はヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成し黄金時代を築きあげ、「常勝西武」と呼ばれた。 * 1993年には9年連続30本以上の本塁打の偉業を達成し、攻守走の要として君臨していた秋山が福岡ダイエーホークスにトレード(秋山、渡辺智男、内山智之⇔佐々木誠、橋本武広、村田勝喜の3対3の交換)。森監督は1994年限りで勇退。 * 1995年、東尾監督が就任。しかし主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、連続優勝も途絶え、黄金期に終止符を打った。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。 * 1997年には松井稼頭央や髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。 * 1998年も日本ハムファイターズとの熾烈な首位争いを制し2年連続してリーグ優勝に輝いたものの、いずれも日本一はならなかった。 * 1999年には西武ドームが完成、松坂大輔人気などもあり観客動員数増加、ナイター中継増加と世間の注目を集めるが、戦跡面は2001年まで3年連続のV逸と常勝軍団化以降はワーストとなってしまった。 * 2001年を最後に東尾監督が勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。 * 2002年、伊原監督就任1年目は開幕直後から首位を独走しリーグ優勝。しかし日本シリーズは巨人に4連敗と大敗を喫した。 * 2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に。
(出典:wikipedia)

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