福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、Fukuoka SoftBank HAWKS Baseball Club)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。福岡県を保護地域とし、同県福岡市中央区にある福岡Yahoo! JAPANドームを専用球場(本拠地)としている。また、ウエスタン・リーグに所属する二軍の本拠地は同市東区にある福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場である。
1989年に本拠地を大阪府から福岡県に移転して以来九州地方で唯一のプロ野球球団である。
* 1938年に南海鉄道を親会社とする南海軍(なんかいぐん)が結成される。同年3月29日に日本職業野球連盟に加盟し、秋季リーグ戦から参加(詳細は後述)。本拠地は大阪府堺市の堺大浜球場。
* 1939年に本拠地球場として中百舌鳥球場が完成したが、公式戦は主に西宮球場と甲子園で行われた。戦前のチーム成績は今ひとつではあったが、鶴岡一人、のち松竹ロビンスの主軸・岩本義行、悲劇のエース・神田武夫と実力のある選手がチームを支えた。
* 1944年の戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併し同年6月1日より近畿日本鉄道となり、合わせてチーム名は近畿日本(きんきにっぽん)へ改称された(かつて存在した大阪近鉄バファローズとは球団としての関係はない)。
* 終戦後の1946年にプロ野球が再開されリーグに復帰。あわせてチーム名をグレートリングに改名した。愛称は「近畿」で、「近畿グレートリング」と呼ばれることもあった(参照)。監督は鶴岡一人(当時は山本姓)が選手兼任で勤めた。戦後の混乱で物資・食料が不足する中、鶴岡は公私を問わず選手らの面倒をみるなど奔走。機動力を重視した戦術で、プロ野球再開シーズンを球団初優勝で飾った。
* 翌1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせてチーム名を南海ホークスに改称した。
* 1948年オフにはエース・別所昭が読売ジャイアンツ(以下、巨人と省略)に引き抜かれる事件が発生した。詳細は別所引き抜き事件を参照。
* 1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。1950年に新本拠地として大阪球場が完成し、ようやく自前の球場を確保する。
* 1951年からリーグ3連覇。戦後より続けてきた機動力野球は、鉄壁の守備力を誇る「100万ドルの内野陣」(一塁・飯田徳治、二塁・鶴岡のち岡本伊三美、三塁・蔭山和夫、遊撃・木塚忠助)を生み出した。この頃の南海は「洗練されたプレーで観客を魅了する都会的なチーム」と評された。1955年にもリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズではいずれも巨人に敗れ、「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。
* 機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換した。しかしなかなか軌道に乗らず、1956年から3年連続で西鉄ライオンズに苦杯を喫する。
* 1959年に立教大学から立教三羽烏「長嶋・杉浦・本屋敷」の一人杉浦忠が入団。長嶋茂雄は大学時代から南海に「栄養費」の支給を受けており、入団は確実と言われたが、土壇場のどんでん返しで巨人に奪われる。
* 1959年に4年ぶり7度目のリーグ優勝を果たす。この年は打線以上に杉浦忠を中心とする投手陣が強固であり、日本シリーズでは杉浦が第1戦から4連投して4連勝、4勝0敗のストレートで巨人を下し、球団初の日本一に輝いた。大阪市内を巡航したパレードは「涙の御堂筋パレード」と言われた。当時は強豪チームというだけでなく人気も阪神タイガースを凌ぎ関西一であった。
* その後、1961年にはリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは巨人に敗れる。しかし、1964年には阪神との日本シリーズをジョー・スタンカの2試合連続完封で制し、2度目の日本一に輝く。
* 鶴岡は1965年に一旦辞任するが、後任監督となった蔭山和夫が就任4日後に急死したため復帰し、1968年まで指揮を執った。詳細は南海蔭山新監督急死騒動を参照。
* テレビ野球中継が始まると、南海は人気を背景に高額の放映権料を要求した。また、直接球場に足を運ばなければ意味がないとして、TVの効果を疑問視していた。ところが、TV中継の拡大ともに、系列の日本テレビ放送網による全国ネット中継を行う巨人と同一のセ・リーグである阪神タイガース戦ばかりが放送され、野球人気そのものがセ・リーグ偏重となり、パ・リーグの南海の人気は低落していった。その結果として、南海戦のTV中継はさらに減少する悪循環であった。かつて南海電鉄が毎日放送の主要株主であった関係から、放映権も毎日放送中心だったが、阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった(ただ、毎日放送との関係は、ダイエーへの球団売却まで続いた)。
* 快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の赤字を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄労働組合からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と黒字化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(同じく鉄道会社が親会社の近鉄・阪急も苦戦続きであった)。
(出典:wikipedia)